ココロカヨウ・カンバン

商売下手の看板屋さんのお話

看板屋さんの仕事って変わってるな~と、つくづく感じています。

デザインやアイデア、美観などのクリエイティブな面を持つ一方で、ガチの肉体労働もあります。
メインツールの一つとしてパソコンを使い、データのやり取りが当たり前。インドアなデスクワークも多い一方で、やたらアナログな手作業も多い。炎天下や土砂降りの雨、手がかじかむような寒さの中で作業をすることもザラです。泥だらけになったり、ペンキまみれになったり、高所作業をしたり、力仕事をしたり。

国数英社理の基本的な学力が必要になるのも面白いところだと思います。例えば、看板に記載する文章が変だったら困りますよね? このため国語力と英語力が必要なんです。社会科の学力の出番は少ないかな。

個人のお客様から依頼された小さな看板でも、第三者の目に触れることになります。
目に触れるだけではなく、人の目を楽しませたり、ランドマークになったり。逆に色遣いに嫌悪感を抱かれてしまったり、ちょっとしたことで第三者からマイナス評価を受けることもあるでしょう。ですから、全体を見る力も試されます。

看板屋は、物理的な作業と、独創力・創造力、社会性といった相反するかのような幅広い要素が必要になる、変わった仕事なんですよ。

さて。
看板屋さんの本質的な部分を見つめたとき、最も重視されるべき部分ってなんでしょうか?

製作したものの信頼性や安全性でしょうか。作業の早さでしょうか。対応力でしょうか。価格でしょうか。アクロバチックな高所作業ができることでしょうか。

全く違います。

ズバリ書きますよ。
看板で最も大事なのは、見た目です。当たり前ですやんけ!! 表示し、周知することが看板の役割ですからね。

デザイン性であり、アイデアであり、正しい言葉・文章であり、適切な企画であり、周辺環境への配慮です。

もちろん信頼性や安全性は絶対の条件ではありますが、看板が看板であるための本質的な部分ってのは、看板の見た目!! これ以外のものではないはずです。(念のため書いときますが、目立てばOKって意味ではありませんよ)

私が看板屋をやっている理由。看板の仕事が大好きだと思う理由は、クリエイティブな仕事だからです。看板の最も本質的な部分が好きだからなんですね。
この仕事がクリエイティブではなくなったら、私は看板屋をやめます。

私が独立した当初から、第一に掲げてきたスローガン。
それは「完成品を支給される看板屋になるな。自社で製作することに拘れ!」です。要するにクリエイティブであれってことです。

私は「支給品の取付仕事が一定の割合を超えたら、看板屋をやめる」と言い続けてきました。もちろん、どうしても付き合い上、あるいは時代の流れで、支給品はある程度は受け入れています。
それでもおかげさまで弊社では今でも、支給品の取付仕事や外注品の取付仕事はほとんどありません。当面の間、私は看板屋をやめる必要はなさそうです笑

世の中はチェーン店ばかりになり、支給品や既製品の取付が看板屋さんの主な仕事になってしまいました。
看板屋さんであるのに、看板で最も本質的な部分に携わっていないわけです。
確かに支給品の看板の取付でも、看板専門業者ならではのノウハウというものは必要です。しかしそれらの作業は、必ずしも看板屋でなくても出来てしまいます。

私は、看板屋を名乗る上で最も大事な部分、境目となるラインは、ここだと思っています。どうして私は他の職ではなく看板屋をやっているのか。支給品の取付作業ばかりやっている人は、果たして看板屋と呼べるのか。

看板は「看る板(みるいた)」と書くんです。「見る」じゃない。どうして「見る」ではなくて「看る」なのか。

英語で看板のことを「sign board」「sign」と言いますが、私に言わせればそれらは「標識」や「表示」を指す言葉です。
「看板」の英訳に相当する言葉は、存在しないというのが持論です。

私はサイン屋じゃない。看板屋です。
血の通った取り組みをし、血の通ったものを作っているんです。知識や技術は、それを支えるためのもの。たとえ看板の撤去作業だったとしても創意工夫でクリエイティブに、血の通った仕事をする。私は「工事業者」「作業員」じゃないんですよ。「製造業」でもないんですよ。唯一無二の仕事のカテゴリーである「看板屋」なんです。
そして私は、お客様にとって唯一無二の存在でありたい。

私が仕事をするうえで、これだけは絶対に譲れないです。